25年 バックナンバー
健康会計について
基幹相談員 楠本 朗
(担当分野:メンタルヘルス)
今,健康会計という新しい概念がでてきています。ご存知でしょうか? 2007年,経済産業省は「経済成長と公平性の両立に向けて」という報告書の提言において,『働くことや生活を楽しむことができることを含めて、健康で自立して暮らすことができる期間(健康寿命)の延伸を図り、失業・貧困に陥るリスクを減少させるため、予防医療の促進とあわせ、「健康会計」の検討等、個人・企業の健康投資の充実を促す仕組みづくりを進め、企業や社会における健康経営・健康増進の取組を促進する』と述べています。
健康に価値があるのは当然のことです。しかしいくら価値があるからと言っても,それだけではどう評価していいのか分かりません。健康という目に見えない価値を数値化,すなわちお金にかえて企業に従業員の健康がどれだけ大切か認識してもらい,それによって従業員たち,ひいては企業そのものを健康にしようと提案するのが健康会計です。
健康会計とは,企業が安全衛生・産業保健活動にかけた費用と効果を会計上の手法を用いて表すことを意味します。企業や健保が社員の健康のために,何に,どのように,いくらお金を使ったのかを明確にし,それに対する効果を算出します。健康会計の目的は,コスト削減ではなく,コストの有効利用ということになります。 そのためには,何にどうお金が使われているのか数値化していく必要があります。たとえば避難訓練をしたとしましょう。避難訓練が業務時間中に1時間行われたのであれば,社員はその間職場を離れ,仕事をすることができません。そうすると「活動への参加コスト=1人当たり1時間の人件費×時間×人数」という形で費用が算出できます。産業医科大学では,産業医大方式安全衛生コスト集計表を公開しています。(http://ohtc.med.uoeh-u.ac.jp/health-accounting.html)
しかしコストに対して,効果をどのように数字化するかというのは難しい問題です。健康といっても,健康状態を把握する期間をどう設定するかによってデータの捉え方はかなりかわってきます。1年間という間隔で健康状態の推移を把握するのか,5年間か,10年間かでは結果はかわってくるでしょう。効果をどのように算出していくかは今後の課題と言えます。
健康会計という概念はまだ新しく,企業も取り組み始めたばかりです。健康会計により健康に対するコストと効果を数値化し,企業が何もしなければ生じたであろう損失を回避することで結果として利益を得ることが判明すれば,企業が労働安全衛生に対して,積極的にかかわる動機になると考えます。
平成25年12月 第750号 掲載
「産業保健の話題(第148回)」
トラウマからの解放
特別相談員 山中 隆夫
(担当分野:メンタルヘルス)
先月末、NHKテレビで上記タイトルのETV特集があった。そこでは、PTSDはうつ状態、双極性障害、不安障害、薬物依存などを併存しやすいとのアメリカの診断基準(DSM-5)をあげるとともに、その最新の治療法としてEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)について、簡にして要を得た説明をしていた。学会の教育講演さながらで、まさに近未来のトラウマ対策の骨太な先駆的指針を報道したものであった。
この稿では、この番組を産業保健の立場から、あらためて眺めてみることにする。
(1) 産業保健のメンタルヘルス面において、うつ病と復職(就労)支援は最重要課題となっている。番組の初めではトラウマのためにうつ病が遷延化したケースを扱っていた。この点で、「気分障害をもつ者の就労支援に関する研究」(鹿児島国際大学大学院 博士論文)はこの間の関連性を明らかにしていて興味深い。著者である臨床心理士の岩重正一氏はうつ病休職者が示す集積疲労は様々なトラウマと密な相関関係を有しており、就労困難者ほどトラウマと集積疲労の程度が深かったと述べている。遷延化したうつ病職員を診る時、トラウマ存在の可能性を心する必要性のあることを教えている。
(2) そのトラウマと解離とは不即不離の関係にある。もちろん解離とはアイデンティティ、記憶、知覚、時間などの一部が統合を失ってしまう現象をいう。番組当初に述べられたPTSDから、主人格が複数の交代人格に別れてしまう多重人格(解離性同一性障害:DID)のケースに至るまで、その間には連続的な重症度の違いがあり、解離スペクトラムとも呼ばれている。PTSDレベルは臨床場面や産業保健の現場で往々にして遭遇するとしても、解離レベルの高いDIDに出くわすことが稀にあるから要注意である。毎日、出勤直後に交代人格に全面変換してしまう例さえあるのだ。頑固な頭痛の訴え、強度の全身倦怠感、そして健忘がチェックポイントとなる。
(3) 番組の主眼はF・シャピローによって開発されたEMDRの紹介に置かれていた。この治療法は文字通り、患者が治療者の左右に振る手指を眼球で追うことで(眼球運動)、不安・緊張を低減させながら(逆制止)、トラウマ記憶の再処理を図っていくものである。具体的には、トラウマに関するネガティブな認知を消去しきった段階で、ポジティブな認知を植え付けていくのだ。8セッションからなる基本的な手順を終えるには、1時間近くかかるのだが、その効果は抜群。うつ状態を遷延化させ、重篤な解離症状まで引き起こしていた深刻なトラウマが「遠い過去のこと」となり、「どうでもいいこと」となり、「何で今まであんなことに悩まされていたのだろう」となってしまう。「EMDRは魔法か、奇蹟か?」と言われる所以である。まさにトラウマ処理の金字塔。産業保健の現場でも本法が活躍する日は近い。
平成25年11月 第749号 掲載
「産業保健の話題(第147回)」
トラウマ(心的外傷)の視点から見たメンタルヘルスのありよう
基幹相談員 久留 一郎
(担当分野:メンタルヘルス)
はじめに
9月17日付の朝日新聞は「PTSD 初の治療指針」という見出しで「災害や犯罪などの体験が心の傷となり、強い不安や不眠などが続く外傷後ストレス障害(PTSD)への対応や治療への指針を、専門医の学会が初めて作った」という記事をとりあげている。
筆者はこれまでにトラウマやPTSDなど、何度か同じような内容を本欄で取り上げてきましたが、今回、上記のようなトピックス的な話題がありましたので、メンタルヘルス・カウンセリングの立場から再度述べてみたいと思います。
「トラウマと体験のありよう」
人間は、凄惨な危機的出来事を回避し、強烈な体験(体験強度)から常に距離(体験距離)をとりながら生きている。その距離を安全に保つことは、自我の重要な機能の一つといえる。しかし、強烈で破壊的な出来事に曝され、体験距離がとれず、しかも至近距離で体験した場合、自我が圧倒されるような状況に陥り、誰もが外傷性(トラウマ性)症状を被ることになる。
また、トラウマ性症状は、トラウマとなる出来事の大きさや強さ(例:地震における震度や台風における風速)などの客観的な状況だけでなく、「いかなる状況でその出来事を体験したか」という出来事に対する「個人の主観的体験(意味づけ)」が大きく影響するといわれる。個人のパーソナリティの「脆弱性」との関係は薄いことが知られている。
「日常におけるトラウマ」
自然災害(地震や津波、火山の爆発)だけでなく、職場におけるハラスメント、学校におけるいじめや体罰、家庭における虐待やDV(人的災害:犯罪、事故)など、自分の生命(精神や身体)の安心安全が脅威に曝されるとトラウマ性症状を被り、PTSDのトリッガー(引きがね)になりやすいといわれる。 特に体罰問題は身体的損傷のみでなく、精神的損傷も被ることをメンタルヘルスの立場から強く主張しておきたい。心の傷は表面には現れないのでわかりにくく、無視されがちである。虐待やDV、性犯罪などはその典型ともいえる。
「トラウマの性質・特性」
トラウマには様々な性質、特性がみられる。そのことを理解しておくことはメンタルヘルスや被害者の支援において重要な意味をもたらす。
その一つにフラッシュバック(よみがえり現象・Flash-back)がある。過去の忌まわしい出来事や体験があたかも現実のようによみがえってくる現象である。
「あの時、あそこで体験したこと」が、視覚的なイメージ、悲鳴や様々な音、臭い、身体が受けた体感などが強い恐怖心や無力感などを伴い、ありありとよみがえってくる現象をいう。根掘り葉掘り聞き出すことは当人にとってトラウマ性症状を煽る危険性が高く、メンタルヘルス・カウンセリングにおいて慎重に配慮すべき点である。
<文 献>
日本心理臨床学会 編「心理臨床学事典・外傷性症状(久留一郎)」丸善出版 2011 朝日新聞 記事 「PTSD 初の治療指針」(平成25年9月17日付)
平成25年10月 第748号 掲載
「産業保健の話題(第146回)」
トラウマ性ストレス(精神)障がい
特別相談員 野添 新一
(担当分野:メンタルヘルス)
トラウマといえば地震・津波、台風、水害などの自然災害と鉄道(交通)事故などを思い出すが、最近ではレイプ、家庭内(心理・身体的)暴力、さらには職場を中心にしたモラル・ハラスメントが注目されている。とくに核家族化や女性の社会進出に伴って乳幼児虐待やネグレクトに起因したトラウマ性障害が注目される。トラウマ問題が、歴史的に明らかになったのは1871年アメリカ南北戦争時のDrダ・コスタによる「戦争心:ダ・コスタ症候群」が初めてで、その後第一次大戦、第二次世界大戦でも「戦争神経症」として取り上げられたが、戦争終結と同時にその話題は消滅している。
臨床医学で初めてトラウマ問題が正式に取り上げられたのは、ベトナム戦争後DSM-ⅢのなかにPTSDとして採用された1980年である。ここでは、臨床において最近話題となるトラウマ性ストレス(精神)障害の問題を取り上げたい。とくに職場・職種の多様化と共に、トラウマ(モラル・ハラスメントなど)と強く結びついたストレス性(精神)障害は増えている。例を挙げると解離性障碍、境界性人格障害、アルコール依存症および薬物乱用、身体性障碍、摂食障害、不安症、うつ病などで、これらの中にはトラウマの視点から見直す必要のある例が少なくない。
わが国では1960年代から核家族化や女性の社会進出が急速に始まったので、その影響をうけている症例は多い。例を挙げると、① 同僚が水害の犠牲となって死亡した状況に居合わせた後、うつ病を発症、慢性化している例。② 職場移動などによるストレスに加えて、上司からの理不尽な叱責を受ける中、同僚による支援もなく孤立した状況に置かれうつ病を発症、以来引きこもり状態に有る例。③ 乳幼児期母親による、愛着障害に加えて父親による(心理的ないし身体的)暴力の既往があり、入社後双極性障碍を発症し度々職場を休む例などである。
トラウマ病態理解のために:マクリーンの三位一体脳の理論はトラウマ問題を理解するには重要である。すなわち、人間の脳は左右だけでなく、垂直に分かれて機能する。それは① 爬虫類的脳(脳幹):これは本能的反応を司る。② 哺乳類的脳(大脳辺縁系):感情の知を司る。③ 人間の脳(大脳皮質):これは知的プロセスを司る、といった3層からなりたっている。通常はこの3層は相互依存的でバランスがとれているが、トラウマを受けるとそのバランスは乱れてしまう。
たとえば、受傷後、昔のトラウマに関する事象に似た刺激に直面(晒されるなど)すると、爬虫類脳、哺乳類脳は異常興奮しやすいが(過覚醒)、逆に大脳皮質は機能低下(低覚醒)を示す。ここにトラウマの問題が長期に恰も昔のことを今に想起することで様々な症状に悩まされ持続化する理由がある。
治療について:今から約100年前に発表したJanet(1898年)の方法が基本となる。① 症状の軽減と安定化(薬物の使用やカウンセリングなどで)を図る。② トラウマ記憶を扱うこと-イメージ下、現実場面での脱感作法(行動療法的手法)など。③ 人格的統合とリハビリテーションである。現代的には3R、つまり再体験(Reexperience)、解放(Release)、再統合(Reintegration)である。病態が急変、慢性化している場合、トラウマの視点から再検討することも重要である。
平成25年9月 第747号 掲載
「産業保健の話題(第145回)」
健診の事後措置
基幹相談員 小田原 努
(担当分野:産業医学)
一般定期健康診断において、健診の事後措置が事業者の義務となって15年程経過しています。最近は安全配慮義務が労働契約法でも明記されるようになり、事業者の意識にも変化を感じ取れます。ますます産業医に対する事後措置への期待も増加してくると思います。
健康診断の事後措置、特に就業上の措置は産業医としての専門性が要求される難しい判断ですが、健診結果と就業との関係に明確なエビデンスがないだけに判定はかなり迷うこともあります。迷った際の参考となる一つの判例に、システムコンサルタント事件があります。これはソフトウエア開発に従事する33歳の男性が、入社直後から指摘されていた高血圧を放置したまま、長年長時間労働に従事し、最後は自宅にて脳出血にて亡くなった事例です。会社は健康診断で本人が高血圧を放置し、かつ増悪して心肥大も進行していることを認識していながら、精密検査を受けるように指示するだけで、業務を軽減する措置を取らなかったばかりか、更にプロジェクトリーダーに昇格させてその責任を負わせ、増員も図らず漫然と長時間労働を続けさせたために高血圧性脳出血を発症するに至ったとされています。この判例では、事業者は高血圧症を放置したまま過重な業務を続ければ、脳出血などが起こることを予見する義務があり、脳出血を起こさないように回避する義務(結果回避義務)があることを教えてくれます。この事業者の「結果予見義務」と「結果回避義務」に産業医へ期待される部分が多いと感じています。産業医としては、放置されている高血圧症等を健康診断で把握した場合は、合併症を起こす可能性をまずは検討する必要があります。脳血管疾患などの家族歴や嗜好品、ライフスタイルを把握したうえで、業務に存在するリスク、特に深夜業や暑熱環境、重筋作業、長時間労働等高血圧症を増悪させるリスクがあるのか、まずは作業環境や、業務内容を確認することが必要です。次に合併症を回避するために、例えば治療により血圧のコントロールが安定するまでは、業務内容を変更する事などを検討する必要もあります。同時に疾病を増悪させないように保健指導する必要も産業医にはありますので、現在の業務内容で疾病が増悪していかないかという観点で業務を見直すことも必要です。最終的な労務管理の責任は事業者にあるとはいえ、専門家としての医師の意見を求められていますので、現場を知り、従業員の状況を把握した上での判断が必要とされていると思います。
なかなか困難な就業判定ですが、最近「医師のための就業判定支援NAVI http://ohtc.med.uoeh-u.ac.jp/syugyohantei/jiko.html」というホームページが開設されました。健診事後措置に関わる問題をわかりやすくまとめてありますので、ぜひ参考にされてください。
平成25年8月 第746号 掲載
「産業保健の話題(第144回)」
ギャンブル依存症の急速な増加
特別相談員 竹元 隆洋
(担当分野:メンタルヘルス)
パチンコは戦後の荒廃した人々の心を癒す手ごろな娯楽として全国に普及し愛好されてきたようです。ところがバブル崩壊後の不景気は50年代の高度経済成長のあとだけに人々の心に閉塞感、不透明感、孤立感を強く生み、パチンコに没頭し自分を見失う人々が多くなってきました。時代の流れでパチンコの機器はコンピューター化し、パチンコ店は大企業化し、ついに大産業化して、毎日の新聞にチラシ広告が2枚も3枚も入り、テレビのコマーシャルも人々の心をとりこにしています。
この20年、私どもの病院にもギャンブル依存症の患者さんが入院していますが、この4~5年は特に急速に増加しているように感じます。平成21年の新入院患者は12人、22年は16人、23年は17人、24年は20人と増加しています。圧倒的に男性で、30代の若い人々が入院してきます。給料の5倍、10倍、20倍以上もの借金を抱え、自転車操業をしながら生きている状況です。40例の調査で多重債務の状況は、消費者金融のみが25%、消費者金融(サラ金)と家族・友人から25%、サラ金と会社借金5%、サラ金とローンや保険解約5%、サラ金とヤミ金融15%、サラ金と会社横領7.5%、ローンが12.5%、会社借金と親から 2.5%、借金なし2.5%でした。特に会社借金、会社横領をあわせて15%もあり、横領の額は驚くほどのものでした。通常、パチンコ店に入っている人の80~ 90%が常連客で依存状態になっていて、一歩進めば依存症になり精神不安定、性格・人格のレベル低下をきたし、経済的破綻、失業、家庭的破綻となって、自力で生きていくことのできない状態になってしまいます。
最近では定年後の高齢者のギャンブル依存症の入院もあり、問題はより深刻になっています。退職金で借金を払える人はよいが、就労時代の借金を抱えながら、収入がなくなっても、さらにギャンブルを続けながら借金を続けている人もいます。ある例では、久しぶりに日雇いの仕事をして、お金が入った日に家出をし、3日後に首つり自殺未遂で病院に運ばれてきました。人間の人生とは何か、生きるとは何か、このような難問題が治療の目標になってきます。ともかく今までの人生の歩みを止めて、自分を振り返ってみる時間が必要です。このような治療のために「内観療法」という精神療法があります。自分に気づくひとつの有効な方法です。
平成25年7月 第745号 掲載
「産業保健の話題(第143回)」
産業医の職場巡視について
基幹相談員 前田 雅人
(担当分野:産業医学)
一般の医師が診察室や病室で患者を診ることが当然であるように,産業医が職場に立ち入り,事業場にて作業状況をみることは重要なことです。以下は,「産業医ガイド」日本産業衛生学会関東産業医部会編(日本医事新報社2010年)および「写真で見る職場巡視のポイント」森晃爾編(労働調査会2010年)を基にまとめたものであり,紹介させていただきます。
そもそも産業医の業務は,担当する事業場の労働者の健康に関するニーズを理解・把握し,健康の専門家としてその維持・増進のために意見を述べたり,指導することにあります。従って産業医が事業場とそこで働く労働者を理解できなければ,期待される役割を担うことはできません。その意味で,職場巡視は産業医業務の中で最も根幹的なものと言えます。労働安全衛生規則第15条第1項では,「産業医は少なくとも毎月1回作業場等を巡視し,作業方法又は衛生状態に有害のおそれがあるときは,直ちに,労働者の健康障害を防止するため必要な措置を講じなければならない」と定めています。産業医の活動内容について,実施頻度を具体的に定めた規定はこの職場巡視以外になく,月1回の活動頻度が産業医としての最低限の事業場への訪問としてみなされることから,いかに重要なことであるかは明らかです。
さて,より良い職場巡視をするためには,巡視の目的,やり方,事後対応を意識した事前の準備が必要です。産業医が目指す産業保健活動と実際に企業で行われている活動との間にギャップがあることは珍しくありません。事前に情報を収集し,このギャップを認識しておかないと,これまでの現場での改善経緯や取り組みを考慮しない,不必要な発言を行うことになるかもしれません。一方,巡視中に見つけた課題が改善され,巡視で継続的にフォローされれば,職場巡視は確実に改善を促すPDCAサイクル(Plan, Do, Check, Act)の柱となります。従って毎回の巡視時にテーマを決めることが大切と思われます。例えば,①健康障害予防の視点からの巡視,②作業能率阻害予防の視点からの巡視,③特定の目的(防疫,作業姿勢,作業改善,作業環境改善等)のための巡視,といったようにある特定のテーマを意識した巡視を行うことで,マンネリ化を防ぎ,新たな問題点を見出すきっかけになるかもしれません。
巡視には担当者に連れられて歩く巡回型巡視と,止まってじっと作業工程を見る定点巡視があり,両者を組み合わせることが良いと思われます。また,目についた問題点を次々と指摘する指摘型巡視と改善点を具体的に提示することを目的とする巡視があります。この際,改善点を指摘するだけでは事業者が困惑する場合があります。なぜなら事業場は中央労働災害防止協会(中災防)の安全基準や労働基準監督署(労基署)などから,改善点の指摘・指導を何回も受けていることもあるので,産業医としてはその内容を聞いた上で,どのようにすれば解決策となるかを話し合うことが重要です。
最後に製造現場で使われるいくつかの共通言語を紹介したいと思います。
- 「建屋」:製造現場では,工場の建物のことを指します。多くの場合は棟毎にアルファベット等の名がつけられています。
- 「4S」:「整理」「整頓」「清掃」「清潔」の頭文字のSをとっています。これに躾が加われば5Sといわれます。書棚の天板から上に載せてあった物品が落ちてきて,頭部挫傷を負う事故などは4Sとけがの良い例です。コンセントのたこ足配線や刺し口の埃などは漏電や,出火の原因となるので,チェックいただきたい。
- 「KYT」:危険予知トレーニングの略で,製造現場のみならずさまざまな事業場では作業前に作業に潜む危険を抽出し,気づきを促すとともに,事故につながらないよう未然に対策を立てています。
- 「OJT」:On‐the‐Job Trainingの略で,実際の仕事を通して職業指導を行うことを指しています。
- 「TT」:テクニカル・トランスファーの略で,技術伝達,事業場では「TTする」といった具合に使用されます。周知徹底を職場で図る,水平展開するという意味合いが強いです。
平成25年6月 第744号 掲載
「産業保健の話題(第142回)」
睡眠は一日7時間
特別相談員 佐野 輝
(担当分野:メンタルヘルス)
さて、皆さんは「睡眠の日」をご存知でしょうか。2011年に、精神・神経科学振興財団と日本睡眠学会とが協力して年に2回(3月18日と9月3日)の「睡眠の日」が定められました。3月18日は、世界睡眠医学会が「世界睡眠の日」としていることからきており、9月3日は「ぐっすり」の語呂合わせからきています。
健康にとって、適度な睡眠が必要であることにはよく知られていますが、どの程度の睡眠が必要であるかについて、最近、国内外からのデータがしっかりと出てきています。名古屋大学の玉越らの論文1)では、日本人約11万人の睡眠時間を調べたところ、7時間(6.5-7.4時間)の人が死亡率は最も低く、それより長くても、短くても死亡率が高くなることが10年にわたる追跡調査で明らかにされています。カリフォルニア大学サンディエゴ校のDaniel Kripkeらの論文2)によれば、睡眠時間が7時間の場合に平均余命が最も長くなり、死亡リスクも軽減することが明らかにされています。睡眠の長短によって、これら、平均余命に直接影響を与える原因としては、高血圧や糖尿病などの生活習慣病が考えられています。睡眠が長過ぎても短すぎても、高血圧に有意になりやすいことや、睡眠不足や慢性の不眠が糖尿病へのなりやすさを規定する因子であることが明らかにされています。
日本人は、古来、「寝る間も惜しんで働く」国民性を持つといわれ、国際的にみても睡眠時間が少ないことが指摘されています。国民5人に1人は、不眠など睡眠に何らかの不満を持っているといわれています。さらに、うつ病などの精神障害においては、不眠はもっともポピュラーな症状であり、メンタルヘルスを労働衛生面からとらえる際にも留意すべき症状でしょう。自殺予防の点からも、内閣府が進めている施策のなかに、睡眠キャンペーンがありますが、その中では「眠れてますか」の標語で啓発される「うつの早期発見」を目的としています。また、一般臨床において生活習慣病を指導する際にも、発症や悪化の原因に睡眠の障害が一因となっていないかを考慮することを忘れないようにしたいものです。
1) Tamakoshi A, Ohno Y, JACC Study Group. Self-reported sleep duration as a predictor of all-cause mortality; results from the JACC Study, Japan. Sleep 2004: 27: 51-54.
2) Kripke DF, Langer RD, Elliott JA, Klauber MR, Rex KM. Mortality related to actigraphic long and short sleep. Sleep Med 2011: 12: 28-33
平成25年5月 第743号 掲載
「産業保健の話題(第141回)」
パワー・ハラスメント
基幹相談員 長友 医継
(担当分野:メンタルヘルス)
大阪市立桜宮高校の男子生徒が顧問から体罰を受けた翌日に自殺した事件は、我々に衝撃を与えました。私の中・高校時代にも体罰はありましたが、自殺を考えるほどではなかったと思います。この事件へのこれからの対応が注目されます。
私は、この「桜宮高校」事件をメディアで見聞しながら、産業保健におけるパワー・ハラスメントの問題を考えていました。職場における過重労働は体罰に相当し、過重労働による過労死が自殺に相当するのではないかと。そして、過重労働の裏には、職場のパワー・ハラスメントもあると思われます。上司の威圧に過労を言いだせないまま、時間外労働を余儀なくされていることが推測されます。そう考えると、今でも過労死は産業保健上重要な問題ですが、より深刻に考えるべき問題ではないかと思われます。
パワー・ハラスメントは、厚生労働省の「職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議」(平成24年1月30日)では以下のように定義されています。
「同じ職場で『働く人』に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正範囲を超えて精神的・身体的苦痛を与えたり、職場環境を悪化させたりする行為をいう。上司から部下に行われるものだけでなく、先輩・後輩間や同僚間、さらには部下から上司に対して様々な優位性を背景に行われるものも含まれる」
体罰も同様ですが、パワー・ハラスメントも「指導」との違いが問題になります。一般に表に示しますような違いがいわれていますが、「指導」には常に冷静な心理状態が求められます。
また、パワー・ハラスメントにより生ずる問題は、法的責任問題とマネジメント上の問題となる組織への影響に分けて考えることができます。
1.法的責任問題
(1)刑法などの問題
・傷害、暴行、脅迫、侮辱などの刑法、税法、商法などの違法行為の強要など
(2)労働法上の問題
・解雇、サービス残業、不当な扱いなど
(3)健康管理上の問題
・うつ病などの病気を発症した「働く人」がおり、労働安全上、大きな問題となる危険性がある。
2.組織への悪影響
(1)排除・攻撃
・加害者は悪意を持って、攻撃や排除をしている。その結果、被害者が能力を低下させたり、心理的に悪い影響を受けている。
(2)過大要求
・加害者にはパワー・ハラスメントの意図はないが、被害者が能力を低下させたり、心理的に悪い影響を受けている。
(3)誤解
・被害者に十分な教育がされていないことやコミュニケーションが不十分であることなどで被害者がパワー・ハラスメントだと誤解している。
モラル・ハラスメントの一つであるセクシュアル・ハラスメントは、男女雇用機会均等法によって規制されています。パワー・ハラスメントに対する法律も制定する必要があるという意見も散見されるようですが、「桜宮高校」事件を契機に、職場のパワー・ハラスメントの問題にも産業医はもとより「働く人」一人ひとりが、より関心を深めることが大切であると思われます。
表 パワー・ハラスメントと「指導」の違い
パワー・ハラスメント | 指導 | |
目的 | ・相手をバカにする、排除する ・自分の目的の達成 |
・相手の成長を促す |
業務上の必要性 | ・業務上の必要性はない ・業務上の必要性があっても不適切な内容や量である |
・仕事上必要性がある ・健全な職場環境を維持するためには必要なことである |
態度 | ・威圧的、攻撃的、否定的、批判的 | ・肯定的、受容的、見守る、自然体 |
タイミング | ・過去のことを繰り返す ・相手の状況や立場を考えない |
・タイムリーにその場で受け入れ準備ができている時に行う |
誰の利益か | ・組織や自分の利益優先 | ・組織にも相手にも利益が得られる |
自分の感情 | ・いらいら、怒り、嘲笑い、冷徹、不安、嫌悪 | ・穏やかな、温かな、きりっとした、好意 |
結果 | ・部下が委縮する ・職場がぎすぎすする ・退職者が多くなる |
・職場に活気がある |
「産業保健の話題(第140回)」
現代型うつ病と発達障害への対応について
特別相談員 冨永 秀文
(担当分野:メンタルヘルス)
現在の職場のメンタルヘルスの話題としては、現代型うつ病とアスペルガー症候群を中心とした発達障害が挙げられる。そのことに関して最近琉球大学の近藤毅先生と斎藤環先生の講演があったので紹介したい。
近藤先生の講演要旨はまず、うつ病の中で非定型病像、混合性の特徴を有する場合は閾値下の双極性を秘めていることも多く、その際は気分安定剤や非定型抗精神病薬の適応も考えるべきであることが強調された。
現代型うつ病に関しては、従来のうつ病とは一線を画す、他罰・回避・自己愛などの問題から、適応障害の一種とみなす風潮があるが、実際には、内因性と適応障害の要素が混在している。これらはむしろ時代の推移に伴う社会状況や若年層の気質の変遷に修飾されている部分も多い。近年提唱されている現在型うつ病の発症パターンは、周囲との不調和の体験(挫折)→自己への執着による防衛→現実の見えない病理(脱社会化)へと進展する共通のプロセスを有している。治療者には、“傷つき”には共感し、“不平”には加担せず、“不利”にならないように配慮するという心構えが必要であると述べられた。
精神療法的にはCBTよりもacceptance commitment therapyが合うのではと述べられた。
次に広汎性発達障害については職場では軽症例が多く、うつ状態を前景とした適応障害や気分障害の合併例が大多数を占めると述べられた。初診時の特徴としてコミュニケーション上の特徴(貧因・表面的・不自然)や対人共感能力の低さに着目するべきである。治療は通常治療に対する抵抗性が見られるため、治療の大枠を「認知修正から行動変容へ」「情より理を優先し、支持よりも指示へ」と方針転換する必要があると述べられた。治療者には、周囲の反応状況を適切に解釈する翻訳者としての働きと、具体的かつ適応的な指示を与える行動インストラクターとしての機能が求められるのではないかという意見を述べられた。
斎藤先生も同じ内容を述べられ、新型うつ病は態度の不真面目と見えても何らかの不適合感や違和感を抱え相談に来る訳だからケアは提供する。薬も出す人も出さない人もいるし、休職の診断書も必要に応じて出したり、出さなかったりすると言われました。ストレスの高い仕事は出来ないけど、ストレスの低い遊びや趣味はできる訳だから、責めずにむしろどんどん活動しなさいと指導すべきと言われました。
そして結論として、「その人のレジリエンスを上げるためには人間関係が大切である『人薬』のキーワードはそういう意味の言葉です。」と述べられました。
お二人の先生の講演の内容に期せずして同じニュアンスがあり「腑に落ちる」ものだったので紹介しました。
平成25年3月 第741号 掲載
「産業保健の話題(第139回)」
産業保健における連携
基幹相談員 小田原 努
(担当分野:産業医学)
ここ数年の産業保健に関する学会のテーマとして多いのは、東日本大震災を受けての災害時の産業保健の役割、法的トラブルに巻き込まれないための産業医としての対処、更には多職種や企業外の専門施設との連携等です。東日本大震災では、復興開始時の安定期において、産業保健職が非常に重要な役割を果たしました。感染症予防、特に避難所での感染症流行防止や津波によって運ばれたヘドロからの細菌感染の不安軽減、アスベストなどの粉じん対策、福島原発での熱中症対策、インフルエンザ予防対応、更にはメンタルヘルス対応でも大きな役割を果たしました。災害直後の「英雄期」からお互いに助け合う「ハネムーン期」、受けたダメージに直面し、やり場のない不満と怒り、避難生活の疲れ、被害の程度の違いによる感情的な反目などが表面化する「幻滅期」におけて産業保健職の果たした役割は非常に重要なものでした。
これらは日ごろの産業保健職が地道に行ってきたことが大いに成果を上げた例と考えられますが、このように産業保健の役割が広範囲かつ専門的になるにつれ、多職種との連携や公的機関を含めた企業外の専門施設との連携が非常に重要になってきています。おそらく結核などの感染症予防から始まった産業保健が、健康増進活動の時期を経て、今や企業の果たすべきコンプライアンス(法的順守)やリスクマネジメントのサポートに移ってきているためだからと考えられます。
産業医としては、まずは企業の労働現場の実情を知り、企業の理念や労働者の生活、信条を踏まえた上で労働者の健康と仕事の両立を図ることは言うまでもないことですが、更には、人事や労務等との連携を通して、一人の労働者保護だけではなく、周囲の労働者の保護を含めた「組織の健全な運用」を図りたいという企業のニーズにこたえることや、特にメンタルヘルスや過重労働対策などの労働行政の企業に対するニーズに対応することが必要です。そのためにはもはや一つの企業の内部に限定した産業保健活動ではニーズにこたえることが難しく、リワーク等を行う公的機関、更には治療を行う地域の医療機関との顔が見える連携が必要となってきています。
鹿児島での産業保健の勉強の場である「鹿児島労働衛生研究会」でも、最近は、公的機関である鹿児島障害者職業センターや、鹿児島県精神保健福祉センター、メンタルヘルス対策支援センターの方等をお招きしての講義を行ったり、鹿児島大学精神科の医師の方々を招いての事例検討会を行ったりしています。産業保健に関心のある医師や看護職の方はぜひ参加してください。
平成25年2月 第740号 掲載
「産業保健の話題(第138回)」
省エネ生活で健康になるかも
特別相談員 岡村 俊彦
(担当分野:労働衛生工学)
現代人は電気やガソリンといったエネルギーを使います。車がエコカーになり,白色電球がLEDに代わっていっても,エネルギー消費はなかなか減りません。最近は“脱原発”が社会の流れになっています。福島原発の惨状を考えるとその流れに異論を持つ人は少ないでしょうが,実際の電力供給を考えると,化石燃料を使う発電の比率を上げることにも疑問は残ります。結局は個人にしろ,企業にしろ,さらなる”省エネ”を進めることが求められている社会であるともいえます。
そんな自分はどのような省エネができているのか,と考えると,通勤で使う車を普通車から軽自動車に変え,教室の電灯をこまめに消し・・・とか。そういえば,パソコンのモニタやテレビの輝度も落とすようにしました。モニタは明るすぎでも,暗すぎでも目が疲れます。快適な輝度設定には個人差がありますが,「これぐらいの明るさが快適」と思うレベルから,さらに少しだけ下げてみてはいかがでしょうか?案外すぐに慣れてしまいます。日本中のテレビの明るさを最高輝度の半分に設定するだけで,原発1基分の節電になる,という試算もあります。
個人での省エネ活動の目安の一つに環境単位(eu :Ecological Unit)というものがあります。人間が1日に必要な食べ物をおよそ2000kcalとして,この2000kcalを1環境単位=1euとしたものです。あまりメジャーな単位ではありませんが,個人ができる環境問題を考えるヒントになります。一般的な家庭での消費エネルギーは1日1名あたり約12euだそうです。ここで,(1)エアコンの温度を2℃調整する(0.8eu),(2)温水洗浄便座を最省エネにする(0.3eu),(3)夏はシャワーのみにする(0.4eu)といった行動により,約10%の省エネになります。エアコンの温度を変えたくなければ,代わりに車通勤をやめてもいいかもしれません。コンパクト車(3.1km/eu)で片道10kmなら往復で6.5euの節約にもなります。ノートパソコン(60Wだとして,8時間で約0.2eu)はデスクトップパソコンの1/3以下の電力です。ただし,デスクトップパソコンからノートパソコンに買い換える場合は,その製造工程でもエネルギー消費がありますので,社会全体からみると,即省エネとまではいきません。
省エネ生活は健康にとって悪い話ではありません。前述のとおり,テレビやパソコンの輝度をある程度落とすことは,視覚疲労の低減につながりますし,車通勤から徒歩,自転車通勤に変えることで運動不足の解消にもなります。仕事を含めて,行動のすべてに環境単位を当てはめていくのは面倒ではありますが,「今日は,あれとこれで省エネしたから,1℃だけ暖房をあげでもいいかな」といった,ちょっとした考え方が省エネ活動と健康を両立させるきっかけになるかもしれません。
(環境単位の参考文献等)
- 書籍:ガイアプレスプロジェクト著「電球1個のエコロジー―環境単位=2000kcalで何でも測ってみよう」中央法規出版
- ウェブサイト:HORIBA : シリーズ環境単位 http://gaiapress.horiba.com/jp/eu/
平成25年1月 第739号 掲載
「産業保健の話題(第137回)」